【信時 潔】
1887(明治20)年生まれの信時潔は、父が大阪でキリスト教の牧師をしていたため、幼少時代から讃美歌に親しんでいた。1906年(19歳)東京音楽学校に入学。チェロ専攻した他、作曲、和声、対位法を学ぶ。25歳で研究科、作曲部に進む。28歳で研究科を終了し助教授となる。 第一次世界大戦後の1920年(33歳)~1922年約2年間ベルリンに留学。作曲をゲオルクシューマンに師事。ヴィリーデッケルトにチェロを師事。現地演奏家の合奏に加わり、室内楽を研究。帰国後は母校で教授となり、作曲部(現、東京芸大作曲科)の創設に尽力し、多くの優秀な弟子を育てた。※1932(昭和7)年まで学部に作曲科がなかった。 コールユーブンゲンの翻訳や音楽理論の書籍も多数出版した。
【越天楽ヴァリエーション】
この22のヴァリエーション(変奏曲)で用いられているテーマは「日本古調」、いわゆる「越天楽今様」である。日本の古典音楽の一つである雅楽は、宮廷音楽として継承され現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽として世界最古の様式である。その様な雅楽で最も有名な曲と言えば「越天楽」であろう。 「今様」とは「当世風、現代風の歌」を意味して、「越天楽」の旋律に「いろはうた」等を配したもので、信時潔が子供の頃にはすでに聞いていたとされる。 仏教唱歌「法の深山」も真宗の信徒に好評で、明治時代に瞬く間に全国に広まったという。その他当時大変ポピュラーであった「笠置の山をいでしより」で始まる唱歌などがあった。 信時潔は「越天楽今様」に関わる作品をこの変奏曲のほかに合唱曲で4曲作っている。 合唱曲の録音の解説では、「日本人になじみがあり、外国の人にも近づきやすく、しかも深い思想を蓄えたいろはうたを選んだ。」という内容を語っている。 1917年、信時潔が30歳の時に作ったこの曲は、2年後にベルリンに留学する際に持っていき、芸術アカデミーのマイスターシューレに入学を許可された可能性が高い。 曲の冒頭は讃美歌を想わせる様な曲調から始まり、第16変奏でようやく平調によるオリジナルの雅楽に近い音楽が現れる。日本風の穏やかな曲調があったかと思えば、バッハ、べートーヴェン、シューマンやブラームスを想わせる様な曲想もあり、日本と西洋の融合を感じさせられる内容の深い作品だ。
瀧廉太郎作曲
①メヌエット
②憾(うらみ)
③日本の情景シリーズより「荒城の月」 井上アキ子編曲
④日本の情景シリーズより「花」 井上アキ子編曲
【瀧廉太郎】 明治12年8月 東京生まれ
瀧家は大分の名門の武家の家柄で、官史を務めた父吉弘の度重なる転勤に伴い、廉太郎も各地で過ごした。
明治22年、父が大分県直入群の群長に転任した際に竹田の官舎に移った。竹田での生活は、美しい自然とあたたかい人情により廉太郎の生涯に影響を与えた。又、近くに「荒城の月」の着想を得たともいわれる岡城があり、そこの石垣で廉太郎が尺八を吹いたという記録も残っている。 この時期、アコーディオンやハーモニカ、ヴァイオリンを自在に演奏し、オルガンも習い音楽学校に進むきっかけとなった。
15歳で上京し、廉太郎の良き理解者であった従兄の滝大吉の家に住み音楽学校の受験に備えた。 そして唱歌、聴音、国語、英語、数学等全ての科目をパスして最年少16歳で東京音楽学校に合格した。
音楽学校ではボストンとウィーンに計6年半留学した幸田延にピアノと作曲、声楽の指導を受けた。 専修部を卒業後研究科に進み、22歳の時にはドイツ留学が発令される事となる。 しかし、1年留学の出発を延期しその間に「幼稚園唱歌」を作った。 又、「荒城の月」「箱根八里」「花」「メヌエット」等、廉太郎の傑作はほとんどこの時期に作られている。
その後明治34年4月に横浜港より出発し、5月中旬にライプチヒに到着。10月の入試まで、ドイツ語とピアノのレッスンを受けて準備をして順調に合格。翌日より通学し、音楽会にもよく通った。
たった1カ月半の通学の後、風邪がきっかけで胸を病み入院し7月には帰国令が出て10月には帰国してしまう。(帰国途中ロンドンでは、「荒城の月」の作詞者である土井晩翠に会う。)
帰国後、大分の両親のもとに帰り、療養中も作曲などをして過ごすが、明治36年6月23歳と10カ月という短い生涯を閉じた。
生前廉太郎はピアノの演奏も見事で明治31年12月に開かれた演奏会では、バッハのイタリア協奏曲(https://youtu.be/OSpGS9Yaql4?si=znM7zFEdBanw8AmI)を演奏し、新聞萬朝報では「日本にもピアノ演奏家が誕生した…」と讃えられていた。
生涯で作曲した約40曲の作品のうちピアノ曲は2曲のみで、他は全て声楽曲である。
1曲目は留学を延期した際に作った「メヌエット」で、日本人作曲家により初めて西洋音楽の要素を取り入れたピアノ独奏曲となった。 2曲目は、亡くなる4カ月前に作った「憾(うらみ)」である。この「憾」は、人を「恨む」というより「残念に思う気持ち」が込められているそうだ。
短い生涯ではあったが、日本の演奏界、作曲界を開眼させ、日本の音楽教育界に不滅の基礎を作ったことは彼の偉大な功績と考えられる。
【リラの花 op21-5】ラフマニノフ自身の歌曲をピアノ曲に編曲した作品です。その詩からは、すがすがしい朝の空気の中リラの花が咲き群れていて、そのかぐわしい房にささやかな幸福が花開いているかのよう…という内容です。
【プレリュード 嬰ト短調 op32-12】 ラフマニノフはプレリュードを24の全ての調で作曲しました。Op32-12はロシアの冬の大地を連想させ、劇的なテンポの変化と豊かでたっぷりした旋律が特徴です。
【音の絵 op39-3】 音の絵とはエチュード(練習曲)と絵画の2つの言葉を合成した題名です。Op39-3は急速に駆け巡る音の流れの中にラフマニノフらしい哀愁が感じられる作品です。
♪1月28日収録
バッハ作曲 イタリア協奏曲 BWV971 1楽章 Allegro 2楽章Andante 3楽章Presto
本来協奏曲と言えば独奏楽器と管弦楽で演奏される他楽章から成る楽曲を指しますが、この曲は2段鍵盤を持つチェンバロの為に作られた独奏曲です。
バッハはイタリアを訪れたことはありませんでしたが、20代の頃(ヴァイマール時代)音楽愛好家の領主に雇われていたおかげで当時芸術の先進国であったイタリアに留学した楽師たちが持ち帰った沢山の楽器や楽譜に触れて協奏曲様式の研究をする事ができました。
バロック時代の協奏曲は古典派の協奏曲の様に提示部、展開部、再現部から成る【ソナタ形式】ではなく、同じテーマが何度も少しずつ姿を変えて現れる「リトルネット」と展開される部分「エピソード」から成る【リトルネッロ形式】や、ソロ群「コンチェルティーノ」とオケの総奏「リピエーノ」に分かれて2群が交代しながら演奏する【コンチェルトグロッソ】という楽曲などがあります。トゥッティとソロ、フォルテとピアノの対比、そして明快であることがイタリア風の特徴です。
2段鍵盤のチェンバロは、上段の鍵盤は繊細でシンプルな響き、下段は厚みのあり響きが奏でられます。 イタリア協奏曲はこの楽器の特徴を生かし、当時の形式(オーケストラとソロの対比等)をあてはめて見事にイタリア風を表した名曲です。
19世紀~20世紀にかけて、パリの『印象派』の画家や『象徴主義』の文学に影響を受けたビュッシーは光、風、水など、自然の中の移り変わる色合いや音、時を音楽で表現しようと試みました。
6月はベートーヴェンのピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2「幻想曲風ソナタ 月光」です。この曲は、ベートーヴェンの死後、「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟の様だ」とコメントされたことから、長い間「月光ソナタ」として親しまれてきました。しかし最近の研究では、モーツァルトのオペラ「ドンジョバンニ」の騎士長が息を引き取る場面の音楽から第1楽章の着想を得たとされ、実際にベートーヴェンの手書きのスケッチも残されております。又、第1楽章の右手の付点のリズムからも「葬送行進曲」と考えられます。第2楽章はメヌエットで、後のリストが「谷間に咲く百合の花」と言っているように、暗いモノローグの第1楽章と、嵐の様な絶望の第3楽章との間に束の間の光を感じられます。
5月はドビュッシーの「版画」です。中国が舞台の『塔』、スペインが舞台の『グラナダの夕べ』、フランスが舞台の『雨の庭』の3曲から成り、ドビュッシーが想像した世界を旅するような楽しさがこの曲の魅力です。
10月は、日本の情景シリーズより四季「秋」と山田耕筰の「夢の桃太郎」(朗読付き)です。